
人的資本開示でKPIが空回りする理由—選定の裏付けを考える

- 2026年3月期からの人的資本開示拡充は「項目を増やせ」という話ではなく、「経営戦略との連動を説明せよ」という質の要求である。
- だが指標の選定は、外部のチェックリストやフレームの引き写しになりやすい。これがKPI空回りの構造的な原因だ。
- 伊藤レポートは、思考の補助線であってチェックリストではない。引用された瞬間に思考停止の隠れ蓑になる読み方が広がっている。
- 「連動」とは、KPIの選定根拠が、自社戦略の言葉でしか説明できない状態を指す。
- 「とりあえずエンゲージメントスコア」が露呈させるもの
開示における人的資本セクションでは紋切型の同じ指標が並ぶ。たとえば、女性管理職比率、男性育休取得率、男女間賃金差、エンゲージメントスコア、研修時間、研修費用などだ。2026年3月期の有価証券報告書から、人的資本開示が拡充された。新規開示として求められるのは、企業戦略と関連付けた人材戦略、従業員給与等の決定方針、平均年間給与の対前年度増減率の3つだ。金融庁は明確に「経営戦略と人材戦略が連動しているかを問う改正」と位置づけている。
この状況に対して、世の中の解説記事が決まって言うのは、「項目を充実させよ」「ストーリーで語れ」「フレームに沿って整理せよ」、ということになるのだが、私たちは、この回答に違和感を持っている。項目を増やしても、ストーリーは生まれない。フレームをきれいに埋めても、戦略との連動は出現しない。空回りしている開示の本当の原因は、項目数でも書き方でもなく、KPIをどこから選んでいるかにある。
本記事で扱うのは、次の3つだ。
ひとつめは、外部のチェックリストからKPIを選ぶ姿勢が、構造的に連動を破綻させていることを示す。
ふたつめは、伊藤レポートの5要素が、なぜ思考停止の隠れ蓑として機能してしまうかを解剖する。
みっつめは、「連動」という言葉が本来何を意味するかを再定義する。
- 既製のリストから選ぶ限り、開示は空回りする
KPIは「外部のリスト」から選ばれている
実務でのKPI選定は、おおよそ次の順序で進む。まず他社の有報における開示状況を調査し、経済産業省や金融庁のガイドラインを参照する。場合によってはコンサルティング会社のフレームワークを取り寄せる。共通するのは、「外部にあるリストから選ぶ」という姿勢だ。
この姿勢が問題なのは、KPIの選定根拠をリスト側に求めていることである。「他社が出しているから」「ガイドラインに書いてあるから」「フレームに含まれているから」が、KPI選定の理由になってしまう。
開示が空回りするのは、このためである。リストから選んだ指標は、リストの論理には沿っているが、自社戦略の論理は反映されていないのだ。30個の指標を並べても、それぞれの指標がなぜ自社にとって重要なのかは文章として書けないので、結果として定型表現で埋めることになる。
たとえば「人材は最重要の経営資源」「多様な人材の活躍が成長の原動力」といった形で、読み手の投資家は、どの企業の開示でも同じ文章を読み続けることになる。
改正が問うのは、選定の順序
2026年改正の本質は、新規開示3項目の追加ではない。「企業戦略と関連付けた人材戦略」が新設されたという事実の意味は、KPIや人材施策を語る順序が、企業戦略を起点に組み直されることを求めている点にある。順序が変われば、選定の論理が問われる。リストから持ってきた指標ありきでは、自社戦略との接続を説明しきれない。「項目を増やせばよい」という助言は、この問題に向き合っておらず、むしろ、選定根拠の弱い指標を増やせば増やすほど、開示全体の説明力は薄まっていくのが実際である。
- 伊藤レポートの5要素が、チェックリストとして消費される構造
3P・5Fは、答えのリストではない
人的資本経営の議論では、人材版伊藤レポートが頻繁に引用される。伊藤レポートは経済産業省が2020年に公表し、2022年に改訂された報告書で、一部のコンサルが3P・5Fモデルと呼ぶフレームワークが示された。3つの視点(経営戦略と人材戦略の連動、As is - To beギャップの定量把握、企業文化への定着)と、5つの共通要素(動的な人材ポートフォリオ、知・経験のダイバーシティ&インクルージョン、リスキル・学び直し、従業員エンゲージメント、時間や場所にとらわれない働き方)がこれにあたる。
このフレームは、人的資本経営を語るうえでの共通言語として機能してきた。全体の骨格をあらわすには非常に役に立つフレームなのだが使われ方には課題が残る。
たとえば、エンゲージメントスコアの開示を考えてみる。この指標が選ばれる理由を分解すると、次のような構造になっている。伊藤レポートの5Fに「エンゲージメント」が含まれている。だから測る。だから開示するという三段論法が、選定の根拠として採用されている。しかし、伊藤レポート自身が要求しているのは、これと逆の作業だ。報告書は「自社の経営戦略にとって、これらの要素のどれがどう重要かを、自社の文脈で読み替えよ」と求めている。3P・5Fは答えのリストではなく、検討の補助線である。だが、フレームを引用した瞬間、選定根拠を「フレームに書いてある」で済ませることが可能になる。これが、フレームワークが思考停止の隠れ蓑として機能してしまう構造だ。
「扱いやすい指標」が選ばれる構造
なぜエンゲージメントスコアという指標が選ばれやすいのだろうか。測定ツールが市場に存在し、他社のスコアとも容易に比較できる。スコアが上がればわかりやすく「改善した」と書ける。さらに、人事部門の責任範囲で完結する・・・。とりあえず開示をとなった時には最もとっつきやすい指標である。しかしこれらはあくまで、KPIとしての扱いやすさの条件であって、自社戦略との接続条件ではないのだ。扱いやすい指標が選ばれ、扱いにくいが本質的な指標は選ばれない。こういった現象が構造的に繰り返されている。もちろん伊藤レポートを引用していない開示も、同じ構造で空回りしている。引用先がガイドラインであれ、他社事例であれ、コンサルファームのフレームであれ、「外部のリストから選ぶ」という姿勢が変わらない限り、選定根拠を自社の戦略的要請に求めることは極めて困難といえよう。
- 「連動」とは、自社戦略で指標の選定根拠が説明できる状態
「連動」をめぐる二つの誤解
「経営戦略と人材戦略の連動」という言葉には大きく分けて二つの誤解がある。
ひとつめは、並列の誤解だ。経営戦略のセクションを書いて、その後ろに人材戦略のセクションを並べれば連動になる、と捉える理解のことだ。順番に並べることと、論理が接続していることは当然ながら全くの別物である。並列されただけの二つのセクションは、独立した二つのセクションでしかない。
ふたつめは、付録化の誤解だ。経営戦略を主とし、人材戦略をその実行手段として従属させれば連動になる、と捉える理解のこと。これは構造としては確かに筋が通っているが、人材戦略の独立性を損なう。経営の側から見て便利な人材施策しか書けなくなる。投資家は、人材戦略が経営戦略に対する独立した洞察を持っていないと判断する。
私たちが「連動」と呼ぶのは、KPIの選定根拠が、自社戦略の言葉で説明できる状態を指す。同業他社が同じKPIを採用しても、選定の理由は違う形でしか書けない。これが連動の最低条件になる。
ベンチマーク指標と固有指標、二層で設計する
実装としては、ベンチマーク指標と固有指標の二層構造で考えると整理しやすい。ベンチマーク指標は、業界横断で比較可能な指標群を指す。女性管理職比率、男性育休取得率、男女間賃金差異、エンゲージメントスコアなどがここに入る。これらは社会的要請として開示が求められており、外す選択肢はない。
問題は、ベンチマーク指標だけの開示は、戦略の不在を露出させてしまうことだ。他社と並べて比較するための指標しかない開示は、「他社と比べてどうか」しか語れない。固有指標、つまり自社戦略の進捗を測るために自社でしか定義できない指標が、ここに足される必要がある。
たとえば、素材メーカーが新素材の上市までのリードタイムを「素材開発人材の育成期間」と紐づけてKPIにする。エリア展開を進めるサービス企業が「新拠点責任者の社内育成比率」をKPIにする。M&Aで成長する企業が「PMI(買収後統合)責任者プールの規模」をKPIにする。これらは、業界横断のベンチマークでは存在しない。自社戦略を語るために、自社の文脈で組み立てられた指標である。
固有指標の有無が、開示の質を決める。固有指標が並ぶ開示は、自社戦略を読み替えなければ意味が読み取れない。だから読み手は、戦略の文脈のなかで指標の価値を捉えることになる。これこそが経営戦略と人材戦略の連動が成立している状態だと私は考えている。
- 管理ツールと開示様式は、KPI選定の後に決まる
データの取りやすさから選ぶと、戦略が後追いになる
ここまで読んで、実務側からはこういう声があるかもしれない。「論理は分かるが、実務はもっと制約がある」。その制約は、データの取得可能性、システムの対応状況、人事部門の管理範囲、開示様式に及ぶ。当然これらに引っ張られて、KPIは決まっていく。
実務担当者として、非常に共感するのだが、冷静に考えるとこのプロセスは因果が逆になっている。データ取得の容易さからKPIを選ぶと、ツールが取れる指標がKPIになる。HR Tech(人事領域のテクノロジー)ツールの導入が先行すると、そのツールに搭載された指標が自社のKPIになってしまうことも現場でよくみられる事象だ。しかしこれらはあくまで、ツール側の論理であって、自社戦略にのっとった論理ではない。
順序として正しいのは、自社戦略でKPIを決めてから、取得方法と管理方法を設計することだ。固有指標は、初年度の集計が手作業になることもある。それでも、戦略の言葉で説明できる指標であれば、開示の価値は高い。逆に、ツールで簡単に取れるが戦略との接続が説明できない指標は、残念ながらいくら積み上げても連動には寄与しない。
KPI選定は、人事ではなく経営の判断
そして、ここに踏み込むと、もうひとつの構造が見えてくる。KPI選定は、人事部門の作業ではない。経営の判断である。
上場企業の有報を眺めると、人的資本セクションのペンを持つのは人事部門であるケースがほとんどだ。これは制度上の役割分担として自然だが、KPI選定の主体が人事になった瞬間、選定の論理は人事の言語で組まれる。エンゲージメント、育成、ダイバーシティが人事の論理では中心テーマになる。だが経営戦略の論理では、これらはひとつの構成要素にすぎない。
経営の判断として選定するとは、CFOやCEOが「この戦略のためにこの指標を出す」と判断する状態を指す。CHRO(最高人事責任者)がいる企業では、CHROがその架橋を担う。CHROがいない企業では、経営企画と人事の境界線で誰がペンを持つかが、開示の質を決める。
平均年間給与の対前年度増減率という新規開示項目は、この主体性を可視化する装置になる。給与水準は経営の判断であり、増減には経営の意志が表れる。この数字を「人事が事務的に出すデータ」として扱うか、「経営が説明責任を負う判断結果」として扱うかで、開示全体の格が変わる。
- 自社のKPIが「自社戦略の言葉」で語れるかを判定する
開示の見直しに入る前に、現状のKPIがどのレイヤーで選ばれているかを判定する。順序は次のとおりだ。
KEY TAKEAWAYS
① まず、自社戦略が言葉になっているかを確認する。 中期経営計画の文章を取り出し、戦略を3〜5の構成要素に分解できるか試す。分解できないなら、KPIの選定論理を組む土台がまだない。
② 既存のKPIを、外部由来か自社由来かで仕分ける。 他社の有報、ガイドライン、フレームのいずれかに依拠して採用した指標を「外部由来」、自社戦略から逆算して定義した指標を「自社由来」として分ける。
③ 自社由来のKPIがゼロなら、固有指標が欠落している。 ベンチマーク指標だけの開示は、戦略の不在を露出させる。経営戦略の構成要素ごとに、進捗を測る固有指標を組み立てる必要がある。
④ 各KPIが、自社戦略のどの構成要素に接続するかを書き出す。 接続が曖昧な指標は、戦略との連動が成立していない。書き出せない指標は、開示から外すか、選定根拠を再構築する。
⑤ KPI選定の主体を確認する。 人事部門だけで選定が完結している場合、経営の判断としての性格が薄い。経営企画、CFO、CHROが選定プロセスに参画しているかを点検する。
この順序を逆にすると、開示は構造的に空回りに戻る。先に外部のチェックリストから指標を選び、後から戦略との接続を書こうとすると、接続は後付けの言い訳になる。読み手はその言い訳を見抜く。


